nonoHana南彦根プロジェクトについて② 百貨卸センター設立の経緯とビバシティ、そして今

2021年10月1日金曜日

nonoHana social 街づくり

 自民党総裁選終わりました。表紙を変えただけのほぼ変わり映えのない短命政権が誕生しそうですね。(゜-゜) 衆院選、必ず選挙へ行きましょう。

 

 ●nonoHana南彦根プロジェクトについて① から間が空きました。

   前稿で百貨卸センター(彦根百貨卸商業協同組合)の成り立ちについて、さらっと書きましたが、帰郷したときにうちの社長である「野々ハナヲ 父」にいろいろ話を聞いたので、せっかくですから、もう少し経緯を書き足しておきたいと思います。

 南彦根をけん引した百貨卸センターの創設と、彦根百貨卸連盟の解散の契機をざっくり説明すると、1つ目はモータリゼーションへの対応(1960年代)2つ目は全国でのビバシティに代表される大規模商業施設のオープン(2000年代)、そして最後に卸業の衰退(2010年~)でしょうか。

 資料(記事末参照)によると、百貨卸商業協同組合の創立メンバーとなる彦根銀座街(当時 土橋町)に集まっていた事業者は道路の狭さと倉庫の確保に苦心していたようです。

 彦根市は城下町ゆえ、隘路が多く、自動車の通行に堪える道路が多くありません。うちの社長は今でもこぼしてます。道路行政がまずいから草津に負けたんだ、と。

 

 遡りますが、彦根銀座街の成り立ちは昭和34年のスズラン灯の改修補助金申請から始まりました。当時、大規模店舗の進出に小商店が怯えているような時代で、結局、街灯だけ直してもどうにもならないのではないかという話になり、彦根市の掲げる「広域都市化」と「都市近代化」への要求にこたえ、いっそ防火建築にしてはどうかということになりました。それがトントンと話が進み、昭和36年に着工し、昭和48年に、道路幅の拡幅、歩道と店舗奥行も拡げ、更に裏側に6・5メートルの市道を備えた今の銀座街の枠組みが完成を見ました。

 一方で、注目すべきは、このころ日本人の消費様式、また商売の仕方が変わったことです。時は高度経済成長期。大量仕入れ・大量販売の時代に突入しました。今までは細々小商いを続けていた卸業も大規模商業施設含む、広域への商品供給を模索。となると銀座では手狭で、倉庫が足りない。車が容易に入らない。駐車場がない。交通の便が悪い。

 

 そこで、中小問屋の交渉力と利便性を高めるために、国策の後押しを得て、低利で資金を借り入れ、割と雑多な卸業を20社(これが国の条件)かき集めて彦根百貨卸連盟が結成され、商業団地建設プロジェクトが動き始めました。 

  余談ですが、当初は他県の商業団地に倣って郊外、今の野田山町のあたりに建設という話もあったそうですが、今も彦根の経済界を引っ張る三社の当時のリーダーの尽力で、最終的にのどかな田んぼが広がる小泉町周辺を一括購入するに至りました。もちろん、将来の「新彦根駅(南彦根駅)」(1981年開業)の開設を視野に入れての立地選定でした

 そして、ついに昭和43年(1968年)10月、 事業総額4億2927万円、敷地8800坪、5ブロック28棟が建ち、19商社の営業所と倉庫が並ぶ彦根市「百貨卸センター」の開業です。


 次の契機は ビバシティ彦根のオープンでした。1986年の構想当時は大規模小売店舗法(通称「大店法」2000年に廃止)の縛りが厳しく、地元商店街の同意が取れず宙に浮いていましたが、88年に地元が賛成に転じたのを機に、一気に計画が進展します。

 翌1989年には再開発事業準備組合で核店舗が平和堂に決定、1996年4月26日に「ビバシティ彦根」として華々しく正式開業しました。

 

 開業後は県内最大規模の商業施設として、集客をしてきましたが、一方で現在に至るまで、南彦根の地勢は思ったほど伸びていないのではないかというのが、野々ハナヲ個人の印象です。もちろんビバシティは連日多くの人で賑わっています。しかし、集客した客が周辺に流れずワンストップですべて終えて帰路につく。南彦根は、ビバシティのある町ですが、逆に言えば、開業20年を経て、いまだ、「ビバシティしかない町」なのです

(もちろん少し行けばジョーシンやナフコやブックオフなんかがあるにはありますけど。)

 

 その大きな原因は、南彦根を商業集積にした「百貨卸商業協同組合」が組合ゆえに区分の自由な移転や売買が制限されており、周辺の繁華街化を期せず抑制してしまったからと言えるでしょう。

 百貨卸協同組合は、会員企業の廃業や撤退、会員数の減少という課題を抱え、ひいては、「地方卸業」という業態そのものが商況の変化で弱体化しました。そこへ滋賀中央信用金庫の本店が移転地を求めているという打診があり、となれば、土地売却も含め、財産共有の仕組みを考え直す必要が出てきました。

 そこで、それを契機に、今後の南彦根の発展を考え、開業から50年の2018年、組合は大きな決断をします。解散します。満場一致でした。

 それに先立ち、百貨卸センターの前後の道路を整備して市に寄付し、それぞれの区分は2019年3月31日をもって各社の資産となりました。その後は売るのも貸すのも各社の自由となりました。(←知ってる人は知っていますが、とても大事な情報です。地上げ屋は勘弁していただきたいですが、商圏を広げたい、あるいは新店舗を設けたいと思ってる事業者様はよく覚えておいてください。当初坪2万円以上で賃貸に出したビバのテナントに匹敵する立地の物件が単純に倍増したという話です。)

 

 今までもテナントに物件を貸していた組合員企業は、弊社含め数件ありましたが、 今後、くすのき通りの北側は加速度的に変わっていくはずです。コロナ禍でリモート出勤が推奨され、大企業も中心部のオフィスを引き払い、郊外や地方に移転する流れができつつあります。市内でも小売りを手掛けていないなら、わざわざ固定資産税が高い中心部に事務所や倉庫を構えている意味はないと考える企業も出てくるでしょう。また、今まで以上にビバシティ彦根の向かい側という強みを生かして賃貸や売却へ動く旧会員企業があって当然の状況です。

  弊社はそんな変化を踏まえて、南彦根を変える第一歩、ファーストペンギンにならんと、nonoHana南彦根プロジェクトを進めております。

 ビバシティを目指して流れてきた消費を、スターバックスでコーヒーを飲んでいた誘客の導線を、あれ?何か新しいものができたかな?と注意をひいて、道路を渡らせる

 それができるなら、南彦根全体の遊客の導線が変わり、消費がかさ上げされ、並びの倉庫街の風景をも変えていく起爆剤になるでしょう。

 既に栄えている町、おもしろい街に出店するのは簡単です。でも、大小を問わず自分の店が、その街をおもしろくする、豊かにする、変えていく、そんなチャンスはそうそうないと私は思います。 敢えて言いましょう。現在の商況を薄闇とするならば、どう考えても南彦根はこれから明けていく、今こそ投資をするに損のない繁華街です。

 魚はいます。後は釣り師の腕だけ!

 我こそは、という事業者様。ぜひとも私どもにお力をお貸しください。小売り1店舗で街を変えることは難しい。しかし、同じように考える「小商い」が100集まれば南彦根を誰もが認める湖東最大の商業地にできる可能性は少なくありません。

 一緒に明日の南彦根を作り上げていく。この大風呂敷、のるかそるか、経営者の資質が問われるチャンスだと私は考えております。

 ぜひとも、ご連絡をお待ち申し上げております。

 

●ビバシティの画像はこちらからお借りしました。

参考)大規模小売店舗法WIKIビバシティ彦根WIKI

参考文献:

『彦根百貨卸商業組合五十年誌』 (2019年3月刊行)

 前稿で掲出した開業当時の画像の一部はこちらにも掲載されていました。この書籍、自費出版のせいか、彦根市立図書館に収蔵されておりません。2冊以上お持ちの方、或いは処分をお考えの方は献本をご検討いただいた方が今後の市史研究にとって望ましいと思います。